第一話:女王の帰国



 

 四月一八日。午後一時三〇分。不城町の住宅街にある袋小路。

 


 逆立てた金髪を額の血に染め、両耳で計八個のピアスをした中学三年生。

背は一六八センチ。華奢に見える体躯だが、ワイシャツとGパンの下に無駄な贅肉がない体型。

その不良少年の背には、三つ編みに眼鏡を掛け、定型的な優等生である春日井忍の前に立っていた。

 六人いる不良達の前に立ち、忍を守るように背中で庇いながら中指を立てる。

 血だらけの顔で、反骨精神を露にする不敵な笑みを、痛々しい傷を歪めて作る。

 

「どうしたぁ〜? あぁ? 群れなきゃなんも出来ないクソッタレども?」

 

 何故、こうなってしまったのかと、忍は同じクラスで一度も話しすら皆無の如月(きさらぎ)鷲太(しゅうた)の背中を見詰めながら振り返る。

 たった、三十分前だった。

 受験の次期に近付いたから、参考書を買おうと街まで出向いた。

 そして、駅前の交差点を歩くただの歩行者達。そのまばらに歩く人たちの背中に漂う黒い影――――その存在を見て、ガタガタと膝が震えてしまった。

 これは、何なの?

 逃れるように思考を強制する。

 記憶に無いが、何故か病院の寝台で目が覚めると同時に、世界は一変していた。

 涙目で自分を抱きしめる母。平日だというのに会社から抜け出して来た父。何時も見下していたはずだと思っていた妹すら、安堵の顔で自分を見詰めていた。

 

――――何か、悪い夢を見ていたみたい。

 

そう、家族の前で言う。

 

――――でも、とても普通に微笑んでいる人・・・・・・・・・日本刀を持った人が、私に言うの。「被害妄想だろう」って。きっと、気持ちの持ちようで何とでもなるって。でも、そう言ったときの人の顔が思い出せないのに、すごく寂しげのような・・・・・・・・・ひどく羨ましそうな微笑みしか、思い出せないの。

 

しかし、両親と妹は取り合わない。

夢の話だろ? 夢だったのよ? 夢よ? 日本刀を持った時点でシュールすぎない?

三者三様の言葉。同じ意味だった。しかし、それからは両親達の表情や仕草に過敏な反応は音を潜めた。だが、代わりのように他人の黒い影が幻覚として襲い掛かる。

 

――――何、あの娘? 震えてる? お兄さんが看護しようか?

 

――――あの子、乳でけぇ〜

 

――――あの先公が! クソッタレ!

 

――――全部、ムカツク! 死ね!

 

背後の影は、行き交う人々の眼差しよりも、顕著に語っている。そんな異様な世界の真っ只中だった。

上下をベージュ色のスーツに身を包み、スポーツバックを担いだ女性が視界に入る。

白い閃光のように光を放っていた。目を細めなければ、目が焼かれるほど。だが、それは錯覚ではない。

 その白いスーツに身を包む女性を横目で盗み見る次には、その人の黒い影が白い閃光に焼かれて消え去る。

 まるで太陽のような女の人が、大股に歩いて忍に近付いてくる。

一七〇センチに届く身長に、スーパーモデルのようなプロポーション。燃え上がるような赤い長髪は腰まで届く。そんな女性が、自分を目掛けるように歩を進めていく。

徐々に、徐々にと――――行き交う人々の黒い影を燃やし尽くしながら・・・・・・・・・

残り一〇メートルの距離になって、忍の呼吸が止まるほどの緊迫感に襲われた。

 

――――幻覚じゃない!

 

徐々に近付いてくるのは、女性などではなかった。それは、人型をした太陽だった。

無限熱量を内包する浄化の炎を撒き散らし、行き交う全ての歩行者にある黒い影を焼き払いながら、進む太陽。太陽の熱量に焼き消され続ける黒い影は、断末魔すらあげられない。

 

――――私も、あの太陽に焼かれてしまう運命なの?

 

そう、自問する頃にはその女性は目の前に立っていた。

 年齢は、良く解らなかった。二〇代と言えば二〇代に見えるほど若々しい。だが、鋭い眼光に母のように深い眼差しを宿らせ、自分よりも酸いも甘いも瞬くことも無く、見据えてきたと解る。全てを見透かし、全てを射抜くような黒の双眸で、この女性は年上であると直感する。

 

「おい? 何を見てるんだぁ?」

 

 いきなり、自分を真っ直ぐに見詰めて言った。

 

「何も・・・・・・・・・見ていません」

 

 懸命に振り絞った声すら、その女性には通じない。

 

「嘘だな。ぶっちゃけ、お前は私を見ていたろ(・・・・・)? そう――――」

 

 その女性の背後から、浄化の炎を幻視する。荒れ狂う緋色の炎は容作り、神々しいほど炎の女神を象っていく。

 

「これを見ていただろう?」

 

 嘘も誤魔化しすらも許されない圧力。その圧倒する存在感に、忍は頷くことしか出来ない。

 

「なぁんだ。お前、あれか? 視えるタイプか? じゃ、大変だろ? 余計なモンまで見えて?」

 

 何を納得したのか、微笑んだ。

夢だといわれたあの男性の、優しさと違う笑み。しかし、この微笑みも何処か安堵を与えてくれる。力強く、庇護の象徴する微笑みに見惚れてしまう。

惚けたように頷く忍に、女性は人差し指で額を軽く小突いた。

 

「えっ?」

 

瞬間、再度世界は一変する。

その人差し指に吸い込まれ、もう行き交う人々の黒い影が見えてなくなってしまった。

 先ほどの幻覚が、嘘のように見えなくなり、あるのはただの現実。ありふれた歩行者達に、目を瞬いた。

 

「これで大丈夫だ。あとは、気持ちの持ちようだ。お前が望んでコッチ(・・・・)に来て位階をのぼるなら、止めはしないが、そん時にはまた会ってやる。相談くらいならのってやるぜ」

 

 そう――――言い残して通り過ぎていく女性の後姿は、とても美麗だった。

 あのように、綺麗で強くなりたい。たった、あれだけの出会いで憧れを抱く。

 夢の男性にも憧れを抱き、今度は少ない言葉だけで交した女性にも憧憬している忍は、足が地に付かない高揚感に浸っていた。

 参考書を買って意気揚揚としている最中、見知らぬ不良に絡まれたのは、不城町の駅に降りてからだ。

 

「てめぇ! 探したぞ!」

 

「クソアマが! よくもまぁ〜コケにしてくれたな!」

 

 そんな身に覚えの無い・・・・・・・・・いや、夢の中でこの不良達を徹底的に、圧倒的な暴力を振るっていたのを思い出した。だが、あれは夢のはず。何故なの?

そんな、パニックに陥る忍を待たず、袋小路に連れられた時、同じクラスメートの如月鷲太が通りかかった。

 

「何だ、テメラ? こんな真っ昼間から女の子をイジめて楽しいのかよ?」

 

 挑発的な言葉。高圧で傲慢なまでに不良達を見渡し、あっという間に大立ち周りを繰り広げた。

 最初の三人に鷲太は果敢にも健闘するものの、一人また一人と増えてくる不良達に、押され気味の状況へとなって今に至る。

 

「六人も汚ねぇ雁首揃えてるんだ! 纏めてぶっ潰してやるから掛かって来いよ!」

 

 額の血も、多勢に無勢の状況でもなお、闘志を燃え上がらせる鷲太の背に、忍は懸命に首を振って言う。

 

「いいよ! 如月くん! もう、いいよ!」

 

 何故自分が、彼に庇われているのかも解らない。

 同じクラスでありながら、一度も会話をしたことが無い。

 クラスの人気者で、話題の中心人物で面倒見が良く、誰とでも理由隔て無く接する如月鷲太を、忍自身は嫌煙していた。

 自分よりも成績が劣っているのに人気があり、校則を守りもしない金髪でありながら教師にも好印象を持っている彼が、どうしても納得できないでいた。

だが、今の忍は解った。

彼に損得など無い。あるのは、目の前でどちらの味方に付くべきか。だた、それだけで言葉と行動で示す。そんな稀有な優しさと強さを知らず嫌っていた忍は、守られるべきでないと自虐的な思考になってしまう。

 

「てめぇ! カッコつけるのもいい加減にしろ! そのアマは、オレのダチを病院送りにしたんだぞ! 左腕に一生麻痺が残るかもしれないって大怪我だ!」

 

 相対する不良の義憤に、鷲太はチラリと忍を盗み見てから、鼻を鳴らして嘲笑う。

 

「知らねぇ〜な? だからって女を殴る理由にも、オレが春日井を渡す理由にもならないぜ?」

 

「クソがぁ!」

 

 鷲太の言葉に、一人の不良が殴り掛かる。

忍を守るため、躱そうとせず顔面に拳を受けるものの、殴り返す鷲太。

 しかし、その繰り返しは鷲太の顔に青痣と、血飛沫は金髪を染め上げていく。

 もう、止めてと叫びたくとも、喉から声も出ない。

 初めて目の当りにする暴力に膝は震え、拳で骨の軋む異音に耳を塞ぐ。

誰でもいい! 誰か、如月くんを助けてください!

だが、そんな願いなど届くはずも無い。ましてや、この不良達に狙われるだけのことをした自分だ。

都合が良すぎる。そんな――――諦念に沈む時だった。

 

「あれ〜? 鷲太じゃん? どうしたの?」と、この暴力の現場に似つかわしくない、声音が響いてきた。

 

 殴られて、倒れかけようとした鷲太の耳に届いたのか、チラリと不良達の背後で立っている一人の青年を見て、顔を一気に青ざめた。

 そして、殴られてグロッキー寸前にも係わらず、背筋を伸ばして気をつけ。

 

「いいえ! 何でもありません!」

 

 不良達は鷲太の大音声に耳を塞ぐ。しかし、鷲太は直立のままさらに声を張り上げる。

 

「それより、誠さんはどうしてここに、いらっしゃるのでありますか?」

 

 えっ? と、忍は怪訝に思う。鷲太が敬語を使うのが驚きだった。どんな相手にも動じないように見えた彼が、酷くその青年に怯えていた。忍は不良達の後ろで佇む誠と呼ばれた青年に、視線を移す。

 身長は不良達よりも高く、一七八かそこらの身長。

 白のロングTシャツに、黒のGパン姿で何処にでもいる普通そうな人だった。だが、何故だろう? 額がジクジクと痛みを覚えるのは?

 

「うん? お前、血が出てるよ? 痛くないの?」

 

 そう言いながら、不良達の間を割って入ってくる。

 

「大丈夫であります! ただこの人たちとプッ――――ップロレスごっこをしているだけです!」

 

 はぁ? と、眉を寄せる忍。言い訳にしてもどうかと思う。

 

「そうなのか?」

 

「そうであります!」

 

「うんな理由あるか!」

 

 顎がしゃくれた不良が怒声を上げて、誠の胸座を掴む。

 

「てめぇもこいつの仲間か! ああ?」

 

「うん? 家族付き合いのある近所同士だけど?」

 

 視線を鷲太から、顔を間近に迫らせる不良に移して答える。だが、その視線は顎をチラチラと動かしていた。

 

「じゃ、てめえも一緒にリンチして――――」

 

「うるせ」

 

 不良の言を遮ったのは、気だるげな声音。

同時に、顎を掴んで何気なく左に動かす。聞いたことも無い異音が発して顎が左にズレ、不良の黒目が上を向き、泡を吹いて倒れた。

 顎が外れている仲間を呆然と見下ろし、静寂の一拍。

はっとなって仲間が倒されたことに怒号が飛び、誠の背後目掛けて拳と蹴りが迫る。だが、誠は背後も見ずに身体に当たろうとした蹴りを掴むと、そのまま人間をヌンチャクのように扱い、頭や足とも言わずに不良達に叩き込む!

 怒号から悲鳴に凄まじいスピードで変わった。

忍の額からは針を刺すような痛みと、現実離れした膂力とコメディー映画のように扱われる不良達。

 人間を棍棒のように振るい、不良達を薙ぎ払う。

ボロボロになっている人間を投げ捨てて、苦痛にうめく不良達を横切って、最後の一人へ歩を進める。

 最後の一人は、ポケットから何かを取り出す。

金属的な音を響かせるバタフライナイフを握り締める。

忍の目から見ても刃物として、武器としては、幼稚な玩具。だが、人を殺傷するに充分すぎる玩具であり、その不良には高価すぎる一品。

そのナイフを、誠の腹目掛けて突進。顔には恐怖を張り付かせ、己の命を守るべく正当防衛の行動を起こす!

 

「誠さん!」

 

 鷲太の緊迫した声音は、遅すぎた。

ざっくりとTシャツに刺さるはずのナイフは、何故か――――甲高い音色を響かせて宙に回転していた。

 根元から折れたナイフは、コンクリートに落ちた音色を響かせる。

 驚愕する鷲太と忍。

何より、刺した本人である不良は折れたナイフと、刺したはずの誠を交互に見上げた。

 

「それ、百円ショップで買ったの?」

 

 首を傾げて的外れな言葉を紡ぐ誠は、ピンと伸ばした人差し指を風切り音と共に、不良の腹へ――――滑り込んだ。

 

「ァ・・・・・・・・・ベシッ!」

 

「ユーア! ショック?」

 

奇妙な驚きの声音が不良の喉から零れ、鷲太の奇声が後に続く。

 衣服を貫通させ、誠の人差し指は隠れていた。その指から、ドクドクと血が滲む。

 まさか――――人差し指で刺した(・・・・)

 言いようのないショックに撃たれた瞬間、忍の目は異なる世界。異なる風景を見渡していた。

 

(この人は人型の暴力と恐怖)

 

 額に走る痛みが、次々と言葉に変換される。

 

(この人は――――夢に出てきた男の人や、赤い太陽のような女性とも違う。まったくの真逆でまったく正反対)

 

 恐慌寸前の忍も見ず、誠は不良と自分が刺した人差し指を交互に見て、小首を傾げた。

 

「あれ、爆発しない?」

 

「何言ってんすっか!」

 

 鷲太は誠のボケに突っ込むと、あたりに転がる不良を跨ぎながら誠に近付いていく。

 鷲太が誠に近付く。たったこれだけでも、忍の心臓は掴まれたような息苦しさを感じてしまう。

 

(この人は、人だけど人じゃない。もっと、怖くて、狂暴で、禍々しい・・・・・・・・・何で、そんな人に近づけるの!)

 

「あぁ〜・・・・・・・・・やり過ぎなんですよ、誠さん?」

 

「殺してないよ。三分の二殺しだ。すごいだろう?」

 

「・・・・・・・・・えばりますか? そこで?」

 

人差し指を抜き、腕を組んで胸を張る誠に、頭を抱える鷲太。

誠に刺された不良は、その足元で膝を立て、腹を刺されたことによってショック症状が始まる。

そして、倒れていた不良達は何とか自力で立ち上がる。誠の眼光は未だ、燃え盛っていた。息の根があることに憤慨する。

歯を剥き出しにし、血の付いた手を再度握り締めた。

 

「てめえら? おれの近所のヤツに手を出せばどうなるか、思い知らせてやる!」

 

「近所の人の迷惑です! それにさんざん、やった後でしょうが! お前ら、逃げろ! 早く!」

 

(たける)(くる)うセリフを吐きつつ近付こうとするが、鷲太は誠の前で決死の形相で押し留め、その隙に重症の顎が外れた不良と、腹を刺された不良、ヌンチャクのように扱われた不良を担いで、一目散に逃げていく。

あとに残ったのは呼吸困難寸前の忍。物足りなさで唇を尖らせる誠。非難の眼差しで、誠を見上げる鷲太だけである。

 

「鷲太? お前は優しすぎるよ・・・・・・・・・ああいうヤツらは、徹底的に叩き潰しておかなきゃ、後で報復にくるぞ?」

 

「・・・・・・・・・あれだけ徹底的にやって、まだ叩きのめすんですか(・・・・・・・・・・・)?」

 

 鷲太の優しさに微苦笑する誠と、驚愕し見上げるだけとなる鷲太との会話は、海と空のように平行で断絶していた。

 

「それより、そっちの女の子は?」

 

 鷲太から視線を後ろへと向ける。誠は、畏怖に震える忍に視線を向けた。ビクリと、肩を震わせて後退りする忍を見て、

鷲太は完全に誠を恐れていると解った。

 

(確かに・・・・・・・・・さっきの不良なんて物の数に入らないだろうな・・・・・・・・・この人の怖さは・・・・・・・・・)

 

 鷲太は胸中で、呟きながら溜息を吐いた。

 

「名前は?」

 

「かっかぅか・・・・・・・・・春日ッ井ぃぃ・・・・・・・・しの、しの、ぶです」

 

名前を問われ、青ざめた顔で歯の根が合わないまま呟いた。

 

「大丈夫だって、春日井。頭から食われる心配はないよ」

 

クラスメートの動揺を察して優しく言う鷲太に、誠は鷲太を見下ろす。

 

「まるでおれが、狂暴な人喰い熊みたいじゃないか?」

 

 面白い冗談だと、笑う誠。

 

((違うんですか?))と、鷲太と忍の胸中でハモり、問い掛けるような視線が誠に集まるが、当の本人である誠は「あっ」と、何かを思い出したように、踵を返す。狙っていると勘繰りたくなるタイミングで。

 

「悪い、鷲太。おれは母ちゃんの酒買ってこなきゃいけないんだ」

 

「えっ? あぁ〜。確か、今日でしたよね? 京香オバ――――」

 

 しかし、鷲太の口は光速を凌駕する掌に塞がれた。

 

「鷲太! お前、死にたいのか?」

 

 恐怖を貼り付けた誠の形相に、忍は己の目を疑った。

恐怖と狂暴の化身と思えた誠の慌てぶりに呆然としたが、誠と同じく青ざめた鷲太も口を抑えられながら、何度も頷いた。

 それを見て、誠もあたりを見渡し、誰もいない事を確認すると鷲太の口から手を離す。

 

「すみません。軽率でした・・・・・・・・・」

 

「いや、気にするな・・・・・・・・・」

 

 謝る鷲太の肩を、優しく叩く誠。

言葉を省いた信頼関係に、忍は首を傾げるだけである。

 

「それじゃ、おれは買出しの続きに行くから? みんなにも家に来るように言っておいて」

 

「解りました。ちゃんと伝えておきます」

 

 それじゃよろしく、と言い残して駆け足で誠と呼ばれた、人型の暴力は走り去っていった。

 徐々に小さくなる誠の背中を見ながら、鷲太は老人のような溜息を吐いた。

 

「行ったか・・・・・・・・・」

 

 嵐が去った安堵と、怪我のせいで足元がおぼつかない。

忍は知らずに身体を動かし、鷲太の左腕を己の肩にまわす。

 

「いや、大丈夫だって」

 同い年の女子。息の掛かるこの近距離に、鷲太は気恥ずかしくなって身体を剥がそうとするが、心労と肉体のダメージは、鷲太の意思とは反してよろめくだけである。

 

「いいよ。これくらいしか、お礼できないから・・・・・・・・・」

 女の子に肩を貸されて歩く姿は、物凄く恥ずかしい。

 女の子の忍はもっと、気が気じゃない恥ずかしさである。

忍の三つ編みからシャンプーの香りが、鼻腔を擽るたびに鷲太の鼓動が、早鐘のように鳴り響く。

気になる異性の接近なら、尚更だった。じゃなきゃ、あそこまで不良達を相手に粘れなかっただろう。

忍は自分のピンチに駆け、小説の主役のように守ってくれた鷲太に対して、複雑で感謝以外の感情もあった。

「あの、本当、家は近いから、大丈夫だって?」

 

 動揺し、困惑した声音で舌は途切れ途切れしか出てこない。

 

「私もこの近所だからいいわよ。確か、如月くんの家は――――」

 あまり意識しないように言葉を紡ぐ忍であるが、鷲太の耳に忍の声は遠い。

 

(落ち着け、如月鷲太。クラス一の優等生で、期末テスト全教科平均九五点の才女様と並んで歩いて良いのか? それにこのままだと、オレの家に来ちゃうぞ? いや、前々から春日井のことが、気になっていたからラッキー・・・・・・・・・って! オレの家族は人に見せられねぇ! どうする? ここは名残惜しいが、やはり這ってでも一人で帰るべきか・・・・・・・・・)

 

「如月くん?」

 

「えっ?」

 

あまり使わない頭をフル回転させたせいで、まったく何も目に映らなかった。だが、あたりを見渡すと、見慣れた建物の前に立っていた。

 

小児科、内科、精神科の如月クリニック。喫茶店キサラギと並んだ看板が目に入った。

 

「・・・・・・・・・何で、オレの家を知っているの?」

 

「えっ? 如月くんの家は、近所じゃ有名よ?」

 

 どう有名かは聞きたくないのに、忍は共通する話題がないため、躊躇(ためら)いながら続ける。

 

「とてもその・・・・・・・・・若い・・・・・・女医さんと、その・・・・・・・・・すごく、個性的な喫茶店のマスターって」

 

 やはりオフクロは異様な若さと言われ、オヤジで言い淀むか・・・・・・・・・

 がっくりと頭を落とす鷲太の胸中も知らず、忍は肩をまわしたまま、古めかしい喫茶店のベルを鳴らして店内へと足を踏み入れる。

「いらっしゃい」

 

 喫茶店の店内は、カウンターだけである。

 壁には形状様々なギターが飾られ、濃厚なコーヒーの香り。

入り口の角にあるジュークボックスは、ボリュームを抑えた七〇年代の軽快なロックンロールをBGMとし、ゆったりと店内に流していた。

カウンターの中には、雑誌を広げて客の姿も見ず、気だるげに煙草の煙を吐くマスターらしき人物である。

 忍にはとても、その人が客商売をしている人には見えない服装と態度である。

金髪に両耳計六個のピアスと、丸いサングラスを掛けている。日本人離れしたほりと、すっきりした顎のライン。精悍な顔にサングラスから覗く瞳は、ミステリアスな翳りを漂わせ、カウンターテーブルの上で両足を組んでいた。

 忍は態度や装飾品よりも、その瞳が目に映っていた。

紫煙とサングラスの向こうで隠れるその瞳は、何を見ればあのような哀愁を纏うのだろうか?

 何に悲しみ、どんな希望を持って見ているのだろうか?

 

(――――黒い天使)

 

 額の痛みはまた知らずに言葉を紡ぐが、言い得て妙だと得心する。

 天使がいるとすれば、きっと愛と希望しか知らない無知だろう。だが、この黒い天使は悪意も卑劣さすらも織って、なお絶望はない。だからこそ、希望が眩しいと織る天使だ。と、コントロールの効かない思考に走りながら、喫茶店のマスターであろう人物を、さらに観察を続けた。

 身長は一八五以上ある。黒いワイシャツに、装飾が施されたスタッズベルト。そしてトドメのような黒のレザーパンツに、ロングブーツである。

そのマスターは、湯気の立つコーヒーカップに口を付ける。

それらの不遜な態度と服装から、きっと競馬情報でも見ているのだろう。と、忍は結論しようとしたが、その雑誌に書かれた字は日本語ではなく、全て英語。しかも、ニューヨークタイムズと表紙を飾っている。

それを見て驚いた忍は、雑誌と雑誌を広げる男性を交互に見比べてしまう。

見た目と違って、教養があるの?

 

「オヤジ〜? 客が来たんだから、少しは仕事をしろよ?」

 

「お父さんなの!」

 

 さらに忍の驚きは続く。

 どうにも年齢を判断出来なかったが、そこまで年上とは思えなかった。むしろ顔のパーツなどが類似し、鷲太と並んだら兄弟のように見えるほど、若い。

 今日はやけに年齢不詳の人物に会う日だと、胸中の感想をよそに両足を組んだ喫茶店キサラギのマスターである、如月俊一郎(しゅんいちろう)は入り口に並ぶ二人に視線をやっと向ける。

 鷲太の顔に青痣と血の滲む額など、見飽きたかの如く嘆息し、視線を雑誌に戻そうとしたが、横で肩を回している忍に視線を留めると、再度雑誌に視線を戻す。

 

「今日はアヤメが外出していないが、弥生がいるんだ。保健の実践なら、よそへいけ」

 

 にべもなく言い放った俊一郎の言葉に、暫し吟味する二人。だが、一拍後には二人の顔は急速に赤くなっていく。

 

「違う!」

 

「違います!」

 

 二人の怒声も取り合わず、席を立った俊一郎はコーヒーの入ったポットを持ち、己のカップに注ぎながら、鷲太に溜息を付く。

 

「鷲太? お前も如月の姓を名乗るなら、クールになれ。簡単に慌て過ぎで、家族(ファミリー)の誰とも似ていないぞ? お前は本当にオレの息子か?」

 

「アンタの遺伝子を半分持っているけど、オレの自慢はアンタに似なかった事だ。生んでくれたオフクロに感謝しているさ」

 

 親と子にしては凄まじい舌戦を繰り広げる二人を、忍は慌てながら交互に見てしまう。

 

「いや、お前はアヤメにも似ていない。むしろ、アヤメはオレよりクールだ」

 

「いや、あれは天然っていうぞ? あれをクールって見るアンタの眼は腐っているのか?」

 

「オレはあのクールさに惚れた・・・・・・・・・」

 

「ノロケやがった・・・・・・・・・」

 

 鷲太は昔を思い出すような、遠い目をする父親を無視して、カウンターに入るとコーヒーメーカーを作動させ、忍へと振り返る。

 

「春日井はブラックだったよな? オレが言うのも何だけど、ここのコーヒーは美味いぞ?」

 

「自家製ケーキも、付け足せ」と、横合いから呟く俊一郎を無視し、呆然と立ち尽くす忍は頷いてカウンターの席に座る頃、あれ? と、首を傾げた。

 

(何故、如月くんはブラック派って知っているの?)

 

と、考え耽る最中に俊一郎は布巾で忍の座る席を清掃する。少なからず、サービス精神はあるみたいだった。

その時、いきなり店の奥にある戸口が、足蹴に開けられた。

 戸口に立っているのは、九歳くらいの小さな女の子だった。

柄が派手なブカブカのパーカー。お下がりと解るボロボロのGパンに両手を突っ込み、キャンディーを煙草のように咥えている。

 

「うわぁ〜」と、頭を抱えてしまう鷲太。身内の恥に絶望していた。

 

 しかし、小さな女の子は気にもせず、ドカッと忍の隣に座る。

 アイコンタクトで、俊一郎はポットからカップにコーヒーを注いで、小さな女の子の前に差し出す。

 豊潤な香りを楽しみ、優雅な手付きで一口飲む女の子の姿に感心する忍だったが、

 

「うげぇー」

 

 可愛らしい小さな悲鳴をあげ、近くにあった角砂糖を次々と放り込んでいく。

「コラ、砂糖をそんなに入れるな。甘い物を取りすぎると虫歯になるぞ? あぁ〜ミルクを注いでやるから、もう砂糖を入れるな」

 

 叱る俊一郎の顔は、先ほどと違った顔――――微笑ましいほど父親の顔をしていた。

 忍はそんな二人を見詰めていると、鷲太の手でコーヒーが差し出された。

 上等な琥珀色をしたコーヒーの香りに、うっとりするほどである。

 

「妹の弥生(やよい)。誰に似たかは言わなくても解るように、生意気で可愛げのない妹だよ」

 

 苦笑して紹介する鷲太だったが、その紹介に不服の表情を浮かべて、ゲル状になったカップを置いて鷲太に視線を移した。

青痣だらけの鷲太に気付き、俊一郎とまったく同じように溜息を付いた。

 

「兄ちゃん。何、その顔は? 如月の姓を名乗るなら喧嘩くらい勝ちなさいよ?」

 

「おい、待て。人の顔見て、負け犬を見るように見下すな」

 

「それにこの人は誰よ、兄ちゃん? まだ、紹介してもらっていないけど?」

 

 このクソガキと、歯噛みしながらも深々と溜息を付いて、落ち着くように努力する。気になる異性の前で、全力の自制心を働かせた。

 ここでゲ激昂するのは容易いが、カッコは付けたい年頃だった。

 

「クラスメートの春日井」

 

 ふーんと、目踏みする弥生の眼差しに、居心地の悪くなる忍。

 

「うん。お兄ちゃんの彼女としては上等すぎるよね」と、何か得心する微笑みを零す。

 

「で、本当にどうしたの? このお姉さんはどう見ても、兄ちゃんと比較にならない位頭よさそうだし・・・・・・・・・見た目と中身が正比例する兄ちゃんと、一緒にいる理由といえば・・・・・・・・・」

 

 実の兄にトコトン失礼な分析を始める妹。その弥生に対し、両手をワキワキと動かして「どう、料理してやろう」と、昏い思案に没頭する鷲太の姿を、まあまあと手振りで忍が抑えるが、首を横に振る俊一郎が口を開いた。

 

「気にするな、春日井さん。喧嘩もスキンシップとするのが、ウチの流儀だ」

 

 止めるだけ無駄だと、一蹴する。

今時にしては、過激な流儀だと忍が苦笑いする頃に、弥生は快活に頷く。

 

「解った! 絡まれていた不良から助けたんでしょう?」

 

「うん。そうなの」

 

「途中で誠さんが来なかったら、さすがに一人じゃ不味かったけどな・・・・・・・・・」

 

弥生の解答に微笑みながら頷く忍だが、渋い顔で鷲太は正直に付け足す。

鷲太は、格好良くなりたい願望はあるのだが、嘘はまったく付けない種類だった。

 

「また、マコトに助けてもらったの〜?」弥生の非難する目。

 

「お前、まだマー坊の背中に隠れていたのか?」驚きの顔する俊一郎の目。

 それらの眼差しが、一直線に鷲太へと注がれ、どんどんと落ち込む鷲太に、忍は慌てて何かを言わねばと、良く解らないが言葉を紡ぎ始める。

 

「その、不良から守ってくれた鷲太くんはとっても、カッコ良かったです」

 

 忍は言った後、後悔した。頬が熱く、自分の湯気で眼鏡が曇りそうだった。

 隣に座る弥生は、呆けた眼差し。俊一郎は新しい煙草を咥え、マッチで火を灯して「若いな・・・・・・・・・」など、言いながら遠くへ視線を向けていた。

 言われた本人の鷲太など、青痣を赤くさせて呆然自失の最中である。異様な静寂を引き裂いたのは、一番小さい弥生であった。肩を竦めて、有頂天の兄を見上げて悪戯好きな顔を作る。

 

「よかったね、兄ちゃん。脈はありそうだよ? それにお母さんがいなくてなお、幸運だね? もしいたら、こんな感じかな・・・・・・・・・?」

 

 そう言いながら席を立ち、頬に手を添えて妙に腰をくねくねさせながら、

 

「あらあらあらあら〜? とうとう鷲太ちゃんに春が来たわ! どうしましょう? 今夜はお赤飯? それより春日井さん? 鷲太ちゃんをよろしくねぇ? この子ったら、見た目と違って奥手で純情なの?」とか、何か言って舞い上がっちゃうものねぇ?」

 

「似てる、似てる」と、弥生の物真似に感心したように頷く俊一郎だが、鷲太はそうはいかない。

 

「うっせぇ! バカぁども! この家族の恥ども! お前ら、どっかで油でも売ってろ!」

 

「解った。オレはこれから弥生と一緒に出かける」

 

「解った。アタシはこれからお父さんと出かける」

 

 棒読みで言って、素直すぎる態度で店の戸口へ足を向ける二人の後姿に、何か邪悪な意図を鷲太は感じた。言葉にしようと言い淀む鷲太を他所に、俊一郎は首だけ向けて鷲太を窺う。

 

「老婆心ながら一曲、流してやる」と、言いながら入り口の角にあるジュークボックスのボタンを押すが、古めかしいジュークボックスは中々、音楽を流さない。

 

 それを見て、弥生はジュークボックスへ歩き寄ると徐に爪先で、小さな身体に似合わぬフォームで蹴り上げた。

 七〇年代のロックンロールから、BGMは妖艶でエロティックな曲へチェンジされる。

 

「近所迷惑を考えろよ?」

 

「叔母さんにさせないでね?」

 

「お前ら、死ねぇ!」

 

 BGMを掻き消す鷲太の怒号を背に、悠々と店を出て行った二人に息も切れ切れになる鷲太は、ハッと重大なことに気付いてしまう。

 

「やられた・・・・・・・・・体よく店番を押し付けられた・・・・・・・・・」

 

 それを聞いた忍は、舌戦とBGMの布石にこのような意図があると知って、愕然とする。

 確かに弥生と俊一郎は、アイコンタクトを交わしたように見えたが、そんな計画を一瞬で練るなどとは、とても思ってもいなかった。

 自分の家族でも、そんな濃密なアイコンタクトなどないからだ。

 

「あの・・・・・・・・・良かったら、手伝う?」

 

 忍の提案に、一条の光を見るような鷲太だったが、そこまでしてもらうとさすがに悪い気がしてくる。

胸中のままの表情で、ジュークボックスへ歩み寄ると、一発蹴ってからボタンを操作する。

変わって、陽気なヴォーカルが恋の予感に飛び跳ねるような曲調になる。

鷲太の表情と、双眸を見詰めながら、忍はゆっくりと心のまま言葉を紡いだ。

 

「気にしないでいいよ。助けてもらったお礼だから・・・・・・・・・」

 

 それは、あの誠が現れようと最後まで守ってくれる。そう、信じているから言えた言葉だった。

 己の優しい声に忍自身も驚くが、鷲太はもっと驚きの表情で忍を凝視していた。そして、頭を掻きながらオズオズと、鷲太にしては珍しく畏縮して。

 

「じゃ、閉店は六時になるけど・・・・・・・・・お願いします」

 

 改まった態度で頭を下げる。忍の微笑を前にして、気の効いた礼も浮かべない自分に歯噛みしつつ、今日は本当にラッキーな日だと心の底から思った。

 

 

 

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